17日から19日の三日間、会派「民主党・無所属クラブ」の志田さん、久保さん、三雲さん、私の4名で宮城県へ視察に行ってきました。
17日は、仙台駅から在来線に乗り換え、亘理駅へ。
亘理町では、震災から復興へのプロセス、特に受援体制の構築や避難所運営について、ご教示してもらいました。
また、この町では現在も新宿区の職員が4名派遣されていて、そうした繋がりもあり、視察を受け入れてもらいました。
この町は、人口35585名で、震災時の犠牲者(行方不明者含め)306名。
海岸部の津波が大きな要因とのこと。
受援体制の構築は、偏りをなくすことと流通経路の確保が重要で、震災後に様々な地域、様々な業種の企業と提携をしています。
震災直後は、水と燃料が何しろ不足をしたようでした。
また、昼間人口不足からの要支援者(高齢者や障がい者など)の避難が困難になる事案などについては、中学生に指導や訓練を施し、これにあたらせるというような取り組みを行っています。
避難所の運営では、備蓄した食料はすぐ底をつき、乳児やアレルギーへの対応策もとっておらず、苦労をしたとのこと。
近くのスーパーと提携していたが店員も避難してしまっているので、物品を勝手に持ち出す訳にもいかず、往生したとの苦労話を聴きました。
説明を聞いた後、被害のあった地域の復興状況や新たに築かれている堤防などを見てまわりました。
亘理から仙台に戻り、新幹線で一関へ向かい、一関からレンタカーで気仙沼へ。
到着は夕方になり、雨も降っていたので、車で被害地域を一周して、盛土や建設作業の進行状況を見て、本日の視察は終了。
夕食は、気仙沼復興商店街「南町紫市場」、俗に言う「仮設屋台村」でとりました。
居酒屋「一福」の店主さんは、
「観光客値段で商売する店もあるが、そんなことをしていたら二度と気仙沼に来てもらえなくなる。店はまだ仮設のプレハブだが、真面目な商売を続けています。」
と地域への思いなどを交えながら話してくれました。
18日、朝から気仙沼市役所へ。
気仙沼での被害は、テレビなどでもご覧になった方は多いでしょう。
74247名の人口で、震災時の犠牲者(行方不明者含め)2262名。
津波と火事で多くの被害が出ました。
被災から復興に向けての新たな防災計画と生活再建として水産加工業の再生の説明を受けました。
がれきの撤去に二年余りを費やし、現在は盛土や基礎工事に取り掛かっている最中とのこと。
それに合わせて、新しい住宅や工場の建設に手をつけ始めています。
船も震災前と比べて、8割方揃い、漁獲量はほぼ同程度まで戻ってきているようです。
役所で説明を受けた後、水産加工業再生の旗振り役を務める「阿部長」の工場を見させてもらいました。
工場は、世界の規格にも耐えられるように、細心の注意が払われ、衛生面など十分な対応がされていました。
様々な機械が稼働しており、オートメーション化も進んでいて、「さんまの甘露煮」などが次々と出来あがっていきます。
ですが、建設業に人材が流れてしまっていたり、避難先で就職してしまい戻ってこれない等、人材確保の難しさが一番の問題のようです。
しかし、現場の皆さんの気持ちは強く、
気仙沼のキャッチフレーズ「海と生きる」
という覚悟をしっかりと感じることができました。
昼食をとり、「本吉広域防災センター」に移動しました。
ここでは、気仙沼市消防団の武山団長から、災害時の状況やその後の取り組み強化など、現場にいた方しか分からない生の声を聴くことができました。
なお、武山団長のご子息が、私たちの会派の志田幹事長とお付き合いがあり、志田さんや久保さんは被災直後のボランティアや復興途上の視察などを続けてきた経緯があり、今回もその関係でお世話になったのです。
津波や火事の被害が出た、当時の現場の映像を見せていただき、胸がつまる思いでした。
消防団の方々にも多くの犠牲者がでてしまい、連絡体制の強化や活動の優先度など、多くのことが見直されてきているとのこと。
震災時の火災消火において、水利確保ができず、延焼を止められなかったとのこと。
「海や川に水はたくさんあるので水利の心配など考えたこともなかったが、がれき交じりの水は消火には使えず、とても苦労した。」
と団長が悔しそうに語ると、
「その経験から、新たに住宅や工場など、特に公の建物の地下などに防火水槽の設置などを提案しているが、ひも付きの補助金や復興支援金は、融通が利かないのでそうしたことに使えず、難しい状況です。歯がゆい思いをしている。」
と、正直な話を危機管理課の方から聞かせてもらいました。
日も暮れてきたので、火災での被害が大きかった鹿折地域の視察は明日にまわし、先ほど見た映像が撮られた「気仙沼市魚市場」で状況や位置などを確認し、本日の視察は終了。
夜は、久保さんがボランティアや視察で気仙沼に来た際に、必ず寄る居酒屋「ぴんぽん」にてサンマなどを食べました。
19日は、朝食後すぐに、昨日訪れることができなかった鹿折地域へ向かいました。
ここはまだまだ復興が遅れており、まだがれきが残っていました。
現在は、盛土と堤防基礎などに取り掛かっている様子でした。
ちなみに、この地域の鉄路は壊滅してしまい、再生の目途は立っていないとのこと。
帰路、一関に向かうために、市街を抜ける際、被災時の状態のまま、解体されることなく残る建物などを何軒も見ました。
まだまだ震災の爪痕は濃く残っています。
どこか「もう過去のこと」と思う自分がいたことを改めて戒め、
「今もまだ震災と向き合い、戦い続けている人たちがいることを忘れてはならない」
と心に深く刻みました。
とても内容の濃い三日間になりました。
受け入れなど、お世話になった皆様に心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。